このページではNontaの溢れる教養を少しづつ小出しにして、
皆様方にお裾分けをしようと思います。(爆笑)


三菱鉛筆(株)は三菱グループ? 

 皆さんは、三菱鉛筆(株)は、旧財閥系の三菱グループの会社だと思っていませんか?
 私も以前はそう思っていましたが、今から15年ほど前、ある本で「三菱鉛筆と岩崎弥太郎創業の
三菱グループとは何の資本関係もなく、三菱鉛筆が業績優秀の為(三菱グループとしても好印象を
持たれ、プラスになる)、三菱グループも黙認している」というような記事を読んで、初めて双方に資
本関係が無いと言う事を知りました。
 その後、数人の人にこの事を話したのですが、みんな三菱鉛筆は三菱グループと思っていて、私
も証拠となるその本をその時は持たず、信じてもらう事はできませんでした。
 (そりゃあそうですよね…、三菱という商標のみならず、あのスリーダイヤのマークまで全く同じな
のですから、関係が無いと思う方がおかしいですよね。)
 
 そのうちにあの記事が載っていた本も忘れ、この問題もすっかり忘れ去っていましたが、先日ひょ
んな事から三菱鉛筆のサイトを訪問した時、この事を思い出し、インターネットでなら何かわかるか
も…と、ちょっと調べてみました。 すると…
 
 日本で鉛筆の製造が事業として開始されたのは、明治20年に真崎仁六(まさきにろく)という人が
東京で「真崎鉛筆製造所」という会社を起こしてからだそうで、その後明治34年に初めての国産鉛
筆を3種類(硬・中・軟)、当時の逓信省、現在の郵政省に納入しました。
 この時の3種類の鉛筆と、真崎家の家紋からあのスリーダイヤのマークと「三菱」ブランドが誕生し
たのはその2年後、明治36年の事だったそうです。
 この後、大正14年に「真崎鉛筆製造所」は横浜の「大和鉛筆(株)」と合併、「真崎大和鉛筆(株)」
の社名で、「三菱」ブランドの鉛筆を製造、昭和27年になって社名を現在の「三菱鉛筆(株)」に改め
て現在に至っているという事で、これで岩崎弥太郎の三菱グループとは何の関係も無いという事が
ハッキリしました。
 
 さらに面白い事に、財閥系の三菱マークの起源は岩崎家の家紋と土佐藩主山内家の家紋を合わ
せた物で、明治43年に現在の形になったらしいという事で、これが事実なら、鉛筆の方が財閥系よ
り早くスリーダイヤを使い始めていたという事になります。 一部情報では、財閥系が鉛筆の方に商
標の使用許可を願い出て許可された…という話もあり、私が以前読んだ「業績優秀の為黙認」という
のとはまるで違う展開になって、驚きでした。
 
今回は、「語源探偵団」(三菱鉛筆は財閥系?)三菱鉛筆のHP「Pencil Case」を参考にしました。
  
                                                 2002.12.12.記

 
三池炭鉱は、三菱が買収するはずだった? 

 三池における石炭の発見は、15世紀の半ばと伝えられるが、その後、江戸時代の三池藩に
よる炭山開発を経て、明治初期には官営となり、大規模な炭鉱として発展していく。
 そして、明治21年、三池炭鉱の民間払い下げが閣議決定するのだが、これは当時、三井と熾
烈な争いをしていた三菱の強い要請で実現したということである。
 当時、三井と三菱は、海運会社で熾烈な競争をしており、最終的にはこの海運大戦争には三
菱が勝利するのだが、メインの事業での戦争に疲弊した三菱は、鉱山経営の拡大に活路を見
出すべく、300万円での三池炭鉱の払い下げを上申した。
 これに対し、政府より官営三池炭鉱の一手販売権を得て、輸出先の開拓に努力していた三井
物産も民間払い下げが決定されればなんとしても買い取らねばならないと考えていた。
 このような両者の思惑の中、最終決定は、できれば誰にも払い下げたくないという当時の大蔵
卿の考えで、最低価格400万円での入札ということになった。 (因みに明治6年に政府が買い上
げたときの価格が僅か4万円、払い下げ時でも常識的な財産価値は100万円弱だったという。)
 三井の番頭(正確には三井物産社長)、益田孝は三池の炭質、埋蔵量などから、400万円の
価値はあるかもしれないと思い、渋る三井銀行を説得し融資を取り付け、入札に臨んだ。
 そして運命の入札結果は…
     1) 4,555,000円  佐々木八郎
     2) 4,552,700円  島田善右衛門代、川崎儀三郎
     3) 4,275,000円  加藤総右衛門
     4) 4,100,000円  三井武之助
 一番札となった佐々木名義のものは、益田が変名で入れたもので、二番札の島田名義のもの
は三菱が入れたものだったという。その差なんと2300円…。
 あらゆる手段を尽くして相手の情報を集めた益田の勝ちだった。
 こうして三池炭鉱は三井財閥の草創期を支える基幹事業としてスタートしたのである。
(因みに昭和7年の朝日新聞によると、三池炭鉱がこのときまでに上げた収益はすでに10億円
を超えていたという。)

  このとき三菱が落札していたら、今の大牟田荒尾は…などと考えるのはやめておこう。
   (ま、そんなに変わりはしなかったと思うけどね…)
                                                 2001.01.14.記


三井が育てたサッポロビール?

 「三井が育てたサッポロビール」というフレーズは、私が炭鉱在職中にもらったガラスコップに
付いていた言葉である。
 ご存知の方も多いと思うが、キリンビールはれっきとした三菱系で聞くところによると三菱商事
などで働く三菱マンはキリンビールしか飲まないそうな…
 では三井マンが飲む三井系のビールは…というと今では無いというのが実情だとか。
 今ではと言うのは昔はあったということで、三井物産の社員だった馬越恭平(この人は東洋の
ビール王と呼ばれたそうな)という人が経営した大日本麦酒という会社がそうで、この大日本麦
酒が太平洋戦争後、今のアサヒビールとサッポロビールの2社に分割され、その後、色々なしが
らみからアサヒビールは住友系の傘下となり、三井とのつながりがあるのはサッポロだけとなっ
たのだが、そのサッポロもいつのまにか安田系の芙蓉グループの一員となって三井との縁は切
れてしまっている。
 それでもここ三井城下町大牟田では「三井のお偉いさんの接待にはサッポロビールしか使わ
んげな」という事は良く聞いた話で、そういう環境の中でサッポロビールの販促の一手として冒
頭のガラスコップが配られたものと思われる。
 そういう事もあり、サッポロビールとは縁がある土地柄と思っていたのだが、先のサッポロビー
ル九州新工場建設の誘致合戦で大分県の日田に敗れ、(水の綺麗さを比べればどうしようもな
い点はあったが…)この土地でも三井とサッポロビールとの縁が切れてしまっているのを思い知
らされた。
 荒尾に出来たビール園が「アサヒビール園」なのに時代の移ろいを感じるのは私だけだろうか…
 因みに、Nontaはいまでもサッポロ党である。(まァ出てきたビールは何処のでも飲むけどね…)
                                                 2000.11.12.記


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