社宅編 その1

  私が生まれたのは、三池炭鉱の社宅でした。
 昭和32年の事ですが、当時四山鉱に勤務していた父は、母、兄、姉と一緒に荒尾市に
 あった宮内社宅に住んでいました。

  昭和35年には三池争議が起こりますが、私は幼かった為、全然記憶にありません。
 只、後になって父や母から当時三池労組の新労組員宅へのいやがらせ、暴力事件が
 多発しており、父が当初より新労組に所属していた我が家は、他の新労組員の家族と
 共に安全な旅館などに集団疎開をしたという事、父は四山鉱の構内にろう城して生産
 再開のために闘ったという事などを聞きました。
  この争議は1年近く続き、昭和35年11月に終結しますが、新旧両労組員の心の中に
 は、以後長い間お互いに対するわだかまりが消えなかったようで、私も小学生の頃に
 は「あそこは旧労(三池労組)やけん、家に遊びに行ったらでけんよ」というようなことを
 母に言われた記憶があります。(子供同志はそんなことはお構い無しで遊んでいました
 が…) この様に社宅内にも深い溝を作ってしまったということも、三池争議の悲しい一
 面であると思います。

  その後、昭和38年6月に緑ヶ丘の弥生町に引越し(この年三川鉱炭塵爆発事故発生)、
 小学、中学、高校とこの緑ヶ丘の社宅で過ごしました。

  以下は、社宅関係の写真です。写真の保存状態が悪くて、見づらいものもありますが、
 どうぞ御容赦ください。

  

   現在の宮内社宅跡。(共同浴場跡から社宅跡の方向を見る。)
  私の生まれた4棟は、高台の方にあった4軒長屋で、今はグリーンランドの
  ゴルフ場になっている。
 
   炭鉱電車宮内駅跡。
  各社宅と三川、四山を結び炭鉱マンの通勤のほか、家族の買い物など
  にも利用され、親しまれた「通勤電車」。この宮内駅の前には売店(三池
  商事・現サンショー)があり、その向かいには、宮内保育所があった。  
  この駅が今も残されているということは大変嬉しいことである。
 
   緑ヶ丘弥生町15棟玄関前。
  この社宅は、6畳2間に3畳、そして6畳の板の間に台所と社宅の中では
  間取りが広く、人気の高い社宅だった。                   
  ちなみにこの写真は、昭和47年、中学3年当時のNontaである。
 
   四山弥生から港務所弥生を望む。
  弥生町は27棟までが四山鉱、それ以降は港務所と別れており、間取り
  も違った。現在の弥生乃湯は、この港務所弥生の跡に建てられている。
  向こうに見えるのは、グリーンランドの有明の塔。
 
   弥生町より暁町方面を望む。
  高い煙突は、第2浴場。弥生町の下にあった第1浴場が休みのときは、
  こちらに入った。主に暁町、小鳩町の人たちが使っていた。
 
   弥生町より三中を望む。
  写真中央右よりの2階建て校舎が、各学年の教室がある校舎、その前に
  見える平屋の2棟は第一、第二理科室。左手の平屋根は2階建てで、職
  員室や美術室など特別教室があった管理棟。その左に弧を描くのは、体
  育館の屋根。管理棟の手前に見えるのはトイレ。
 
   昭和57年当時の弥生町。
  18、19、25棟付近。
 
   弥生町15棟 6畳の板の間。
  真中に掘りごたつが掘ってあり、七輪に配給の練炭をおこして
  使用していた。
  畳のように見えるのは、ゴザ。
 
                


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