久 保 清 氏 刺 殺 事 件 Vol.2
              (昭和38年1月 日経連発行 三井鉱山編集「資料 三池争議」より抜粋)
 
  生産再開の為の就労をめぐる三川鉱に於ける未曾有の流血事件の発生に、世論は厳しかっ
 た。 大新聞はこぞって社説でこの問題を取り上げ、事態の早期収拾を説いた。すでに事件の
 前夜戦術を転換して、中労委に三池問題の斡旋申請をしている炭労にとってもこの流血事件
 の発生は大きなショックであったに違いない。この事態によって、中労委の斡旋も急速に進展
 するかに思われた。 しかし事件の全貌が明らかにされないうちに突発した新たな事件によって
 事態は全く様相を一変した。29日午後5時10分頃、四山鉱正門前でいわゆる暴力団の一員に
 よって旧労のピケ隊員の一人久保清氏が刺殺されるという事件が発生したのである。当局の
 捜査したところによると、その事件の概要は次のようであった。
 
  大牟田、荒尾両市内を主地盤とする山代組、寺内組の組長らは、争議の長期化に伴う両市
 の衰微を憂え、又新労組員とその家族に対する旧労の暴虐行為に義憤を感じ、これを座視す
 るにしのびずとして、久留米、熊本両市の友好団体に協力を求めた。かくて3月29日大牟田市
 笹林公園に集合した山代組、寺内組、浜田組、本村組、北川組、上野組、河野組、荒木組、中
 嶋組等の諸団体総勢約130名は、新労支持の激励決起大会を開いた後、自動車18台に分乗
 して午後一時ごろ公園を出発、途中新旧各労組本部を訪れてそれぞれ支持激励と、暴力排除
 の申し入れを行ない、大牟田、荒尾両市内のパレードに移った。
  パレードは山代組のトラックを先頭に、15台のハイヤー・タクシーがこれに続き、最後尾の2台
 がバスという編成。両市の炭住街を、新労の支持激励、旧労の暴力行為中止勧告を情宣しな
 がら行進を続けた。 このパレードは、途中炭住街では殆どトラブルらしきものも無く過ぎ、無事
 終るかと思われた。ところが、午後5時頃、四山鉱南門前を経て、同正門前の道路にさしかかっ
 た時、悪罵の応酬がもとで、遂に旧労ピケ隊数百名との大乱闘を引き起こした。
  事件の発端はこうである。パレードの前から三輌目の乗用車に乗っていた者が、ピケ隊から
 猛烈な罵声を受けて激昂し、車を停めて飛び降り、棍棒を持ってピケ隊に突っかかって行った
 が、反対にピケ隊に殴られピケ隊の中に引きずり込まれた。そこでこれを見ていたパレード連
 中が、応援にかけつけ乱闘となったようである。
  乱闘は、双方が棍棒類を振っての殴り合いで、当初正門前のピケ隊は約80名程度であった
 が、旧労側はすぐ近くの大島、四山社宅のピケ隊に応援を求め、たちまち約600名となり、組側
 が乱闘後車を停車したまま退却し始めると、ピケ隊はこれを追い、自動車の窓ガラスなどを次々
 と破壊した。再び組側が態勢を盛り返して反撃に出ようとしたところで、パレードに追尾していた
 警官隊2個小隊に制止せられ、程なく到着した応援の部隊によって、事態は収拾された。
  この当初の両者の乱闘は、僅か5分ほどで終ったが、このとき組側の一員によって久保清氏
 が刺殺されたのをはじめ、旧労側18名、組側数名、警官2名の重軽傷者を出した。
 
  この事件は、まことに不幸な出来事であったが、労働争議にいわゆる暴力団が介入したこと、
 労働争議で組合員が刺殺されたことの二つの点から、異常な出来事として三川鉱乱闘事件以
 上に世間の視聴を集め、この後の三池争議の経過に重大な影響を与える結果となった。当時
 旧労は、炭労の戦術転換による三池支援の統一闘争体制の崩壊、会社の生産再開の一応の
 成功、三川鉱乱闘事件による世論の批難の集中など客観情勢が著しく不利な状況の中で窮地
 に立っていたことは誰の目にも明らかであった。この旧労陣営にとって、いわゆる暴力団による
 刺殺事件の発生は、まさに起死回生の絶好の宣伝材料を供することとなった。総評、炭労、旧
 労は、翌日より大々的に この事件を取り上げ、「会社が暴力団を雇い入れて久保氏を殺したの
 だ」と、虚構の宣伝をセンセーショナルに展開した。 そしてこれは宣伝方法のあらゆる手段を駆
 使してあくことを知らず反復された。しかし、右の宣伝が旧労側の全くの虚構であったことは、そ
 の後の当局の捜査と、 熊本地裁における本事件の公判廷において明白にされたが、すでに旧
 労側はその時までに充分宣伝の目的を達していた。
  この事件によって、会社側がロック・アウト以来慎重に積み重ねてきた有利な体制は一挙に
 崩壊した。 同時にこれによって旧労側は、ようやくその劣勢を挽回して態勢を立て直し得たと
 いっても過言ではなかろう。 三池争議の早期解決は、この事件によっていよいよ困難となって
 いった。
 
  
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2002.1.20作成
 
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