三池新労初代組合長菊川武光氏の回想録
          (平成2年3月発行 三池新労組結成30周年記念誌「風雪」より抜粋)
 
  三池争議、新労組結成は最近の出来事のように私の脳裏から離れることはありません
 でした。ここで私の回想の一端を綴ってみたいと思います。
  昭和30年代は全世界的にエネルギー革命と呼ばれ、即ち固体(石炭)から液体(石油)
 へと大きく転換し始めたが、炭労とりわけ三池労組はこの現実をあえて直視せず、数次に
 わたる経営改善の為の合理化案に対し、すべてこれを拒否しておったし、又会社も提案し
 た合理化案を自ら白紙撤回するので、組合はその都度自らの力を過信することになって
 いったのであります。
  当時、日本の労働組合はナショナルセンターとして総評・全労(後の同盟)・中立労連と
 に分かれていたが、組合幹部は「全労は組合ではない。総評が労働者を結集している戦
 う組織であり、その総評を支えているのは炭労であり、その炭労の主力部隊は我が三池
 労組だ。三池労組が立ち上がれば不可能なことはなにもない」と宣伝し組合員を指導して
 いたのであります。
  三井鉱山は経営改善の最後の手段として、九州、北海道6山の組合に対して一斉に合
 理化案を提案した。
  これに対し、三池を除く他5山はほとんど平穏の時に解決をみたが、三池労組は白紙撤
 回を求め三鉱連(三井兄弟組合)から全く孤立した戦いを続けていった。
  組合員が家庭事情、あるいは借金などのため条件のよい希望退職の動きをすれば、団
 結を乱す裏切り者として大衆動員によって吊るし上げる。また、夜逃げ同様の移転をしなけ
 ればならない等のトラブルが次第に頻発し、各地区毎にはピケ小屋を作り、交替制で24時
 間の常駐とし、外部からの侵入を防ぐとの名目で組合員がお互いを監視し合い買い物も自
 由に行けない。親戚から訪ねて来てもその後をつけられていました。
  勿論、ストライキの長期化によって収入は全くないので生活資金として総評から月1万円
 のカンパ(闘争終結後返済したと聞いている)で生活を凌いでいたが、 闘いを支えた合言
 葉は「会社は潰れても山は残る」 「総資本と総労働の対決」という文句に飾られて、全く展
 望が見えない無謀なストライキ(ロックアウト)の長期化でありました。
  私は、各地域で起きている組合員・家族を含めたトラブル、対立状態及び三井他山の組
 合幹部より入手する情報をもとに同志の皆さんと秘密裡に会って内外の諸般の情勢を分
 析、とりわけ組合幹部に対する組合員の限りなく無言の判断と抵抗を考慮して、現在の労
 使紛争を打開すべく規約に基いて中央委員会の招集を組合長に要請致しました。
  その中央委員会が大牟田市体育館で開催されたのが昭和35年3月15日であった。
  その日会場周辺に集まった群衆の熱気は、一触即発を思わせる異状な空気であり、不
 測の事態発生を心配して開催に先立ち、阿具根前参議院議員(元三池組合長)の仲介に
 より、組合長と私とのいわゆる三者会談を行い、会場内外に集まっている一般市民も含め
 数万人の群集とそれを遠くに取り巻いている警察機動隊を平穏に解散させることも含め、
 中央委員会の進め方について話し合った結果は、@戦術転換について菊川委員が主旨
 説明する Aこの提案については充分討論を交すが賛否の採決は内容の重大性並びに
 群集の紛糾混乱を避ける為、本日の中央委員会で行わないで後日各地区毎に全員の無
 記名投票によって決定するとの申し合わせを確認しました。
  この三者会談が終わり、中央委員会は開会されたが私の主旨説明は会場内の罵声と
 怒声のため何回も中断し、ほとんど聞き取れない興奮状態が続き大衆による暴力事件発
 生寸前まで高まったのであります。
  すでに三池には全国から多数のオルグが各家庭に駐留していたが全員が傍聴席を埋め
 ていました。
  私はこの異常な会場で身の危険を感じ、その場に堪えていたがそれは必ず組合長が三
 者会談の申し合わせ事項を守って、事態収拾してくれるものと信じたからであります。
  しかし、遂にその約束は守られませんでした。
  議長は「これから菊川提案(戦術変更)について採決します」と宣言したので、私は議長
 席に走り寄り「それは約束が違う」と叫んで、採決を中止するよう懸命の努力をしたが、そ
 れも限界に来たので同志中央委員69名と共に私たちを支援する傍聴者に守られ、自ら退
 場避難し場外に脱出しました。
  場外にも数千名の支持者が結集していたので、共にスクラムを組んで大牟田市民会館
 に集まり、中央委員会の経過を説明すると同時に我々の真意を多数の組合員に伝え同志
 を拡大すること、また同志の中には批判分子と烙印を押され家族を含めすでに集団リンチ
 を受けている者がいるのでこれを守るための自決措置として刷新同盟の結成を訴え強行
 しましたが、それはすでに15日の深夜となっていました。
  その直後、組合幹部は「刷新同盟に参加し、その指導的役割にある者を除名する」との
 方針を固めたとの情報を入手したので、直ちに幹部同志と語らい、一刻も早く新組合を結
 成しなければならないと決心したのであります。
  その理由は、当時の労働協約では「組合を除名された鉱員は会社はこれを解雇する」と
 のユニオンショップ制があったので、これを逃れる唯一の方法は新組合を結成し、新組合と
 会社との間に労働協約を結ぶことでまず身分を保全すること、また長期にわたるストライキ
 で無収入の組合員は総評より月1万円の借り入れで生活を支えている現状からサラ金に
 苦しんでいる者も多数いたのであります。
  これを早急に改善する為には新労に加盟した組合員に対し、ストライキ解除を指令し会
 社に対して一定の条件が整ったら新労要求を行う。もしピケによって就労が実現しない場
 合はピケ排除の責任は会社側にあるので労働協約に基く賃金の補償を要求する。
  以上が新労組結成の基本的構想であり、それ以外に方法がない事も明白でありました。
  決起大会を開き各地区の情況報告を行った直後、新労組結成以外に我々の生きる道は
 ない事を説明、その場で三池労組脱退届、新労組加入届に各自氏名を記入し拇印を押し
 てもらい手続きは完了しました。
  大会終了後、正面入口に用意したダンボール箱に投入された加入届の数は3,065名だと
 今でも記憶している。その日は昭和35年3月17日でありました。
  新労組誕生を内外に宣言するため直ちに市中デモを行進したが、組合員・家族は勿論、
 市中の興奮と熱狂は今でも私の脳裏から離れることはないし、沿道を埋めていた者は万
 歳万歳を連呼し感激のあまり行進の先頭に立っていた私の手を堅く握り「これで市民は救
 われます。市の再建に光が見えてきました。」とまで新労組の誕生を待ち望んでいた人々
 の賛辞と期待を持って迎えられたのである。
  以上は、単に新労組結成時の瞬間的経過であり資料もないのに一気に書いたが、その
 前後数年間にわたり同志の皆さんへ多大の心痛と苦労、そして迷惑をかけたことを改めて
 この紙上を借りてお詫び申し上げますと共に、史上最大の争議へ発展した中で支援してく
 ださった各種団体の皆さんにも心から厚く厚くお礼申し上げたいと思います。
 三池争議を最終的に総括すると、@新労組員・家族の負傷者数1,926名 A三池労組関
 係者で逮捕された者の数1,439名 B全国から動員された警察官機動隊員数73万9,480
 名 C投入された官労使の資金額不明、この数字を見ただけで三池争議が如何に労働争
 議の域を脱していたか、まさに「血を血であらう」異常なものであったか想像できると思いま
 す。
  私は、組合員及び家族の皆さんに対し「任務が大であればある程受ける試練もまた大で
 ある」と自らを勇気付ける意味を含め演説した事を想い出して、この稿を書いたことを付け
 加えたいと思います。
 
2001.11.08.作成
 
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